そして、とうとうその日がやってきた。
その日は朝から雨。でも、陸上の試合がある。僕は審判をしなければならない。
お世話になったこの靴とも、今日でお別れだ。
僕は心を込めて最後の靴ひもを締めた。
案の定、ぬかるんだグラウンドは僕の靴を汚していった。
一日中降り続いた小雨も追い打ちをかけ、僕の靴はどろどろになった。
そのままでは車にも乗れないほどの汚れだった。
家に帰ってからまず汚れた靴を取り出した僕は、そのまま燃えるゴミのゴミ箱の前に行き、
ふたを開けた。
そして、靴を入れようとして、汚れてしまった靴を見ながらなぜか手が止まってしまったのだ。
僕は
「洗ってから捨てよう」、
そう思い直して、靴を裏口に置いた。
そのまま一週間忘れていた。つまり、今の僕には必要でないものなのだ。
その靴を洗った。靴を洗いながら、僕はいろんな事を思い出していた。
「サロマ」という靴の名前も素敵だった。
靴の中に中敷きがあるという本格的な作りも気に入っていた。
初めて履いた時、なんて軽くて柔らかいんだと感激した。
この靴で何度も何度も小豆島フルマラソンを走った。初めてフルマラソンで4時間を切り
「サブ4」の仲間入りをした時もこの靴だった。
しまなみ海道開通記念の100キロマラソンにも出場した。
尾道を通って大三島まで走って、65キロ地点で棄権した。
40歳になって記念に出場した大分国東半島100キロマラソンは、完走した。
走り終えたら靴のかかとは思いっきりすり減っていた。
いろんな事を思い出した僕は
「ありがとう、ありがとう」と
何度も言いながら靴を洗い終えた。
すっかり乾いて、少しだけきれいになった靴を見たら、やっぱり捨てられなくなった。
もう何の役にも立たない靴だ。この靴より後から買った靴は、簡単に捨てた。
でも、この靴だけはなぜか捨てられない。
靴が「捨てないで」と言っているなんて、メルヘンチックなことを言うつもりはない。
もっと強い何かが働いている。捨ててしまったら何かを失いそうな、
理屈ではない倫理観のような何かが。そこには、愛着とか、思い出とか、
感謝などといった甘い言葉で片付けられない何かがある。
そう、それは一緒に苦しみ、喜び、支えてくれた仲間に対する「畏れ」だ。
この靴を持った僕の手が「捨てる」という行為に対して畏れている。
目に見えないものに畏れる心を人間は失ってはならないのだ。
いつかは捨てなければならない時が来る。過去を捨てて人間は前に進むのだから。
でも、今はまだ捨てられない。洗ったばかりの靴を、そっと倉庫にしまった時、
「今はもう動かないおじいさんの時計〜♪」の曲が、僕の頭の中でリフレインした。
(2007.12.16 GAN)